聖なる煙の不在:境界線に消えるパロサント、あるいは「祈り」の持続可能性について
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デスクに置かれた木片が、いつか「手に届かない過去の記憶」になると想像したことはあるだろうか。 我々がその芳醇な香りに身を委ね、都市の喧騒を一時的に忘却するとき、その背景では極めて冷徹で、かつ切実な国際政治と生態学の力学が働いている。
いま、パロサントを巡る情勢は、静かな、しかし決定的な転換点を迎えている。かつてはアンデスの山から自由に運ばれてきたはずの「聖なる樹」が、なぜいま、厳格な法規制と輸出制限の檻の中に置かれているのか。その理由を紐解くことは、我々の欲望が地球という有限なシステムといかに衝突しているかを突きつける、一つの鏡となるだろう。

「資源」へと堕した聖樹:野生の収奪とワシントン条約
人類学的な視点に立てば、パロサント(Bursera graveolens)は、数千年にわたり共同体の精神的支柱として存在してきた。しかし、21世紀のウェルネス・ブームがそれを「世界的な需要を伴う商品」へと変質させてしまった。
乱伐が進んだ結果、国際的な野生動植物の取引を規制する「ワシントン条約(CITES)」の動向や、各国の国内法は急速に厳格化している。特にペルーやエクアドル政府が課している輸出制限は、単なる環境保護の枠組みを超えた、国家としての「文化的資源の防衛」に近い。かつてインカの末裔たちが、自然死した樹木のみを拾い集めていたという倫理的調和は、いまや法的な許可証なしには成立しない。我々が手にする一本のパロサントには、その出自を証明する膨大な書類と、絶滅への危機感が刻まれているのである。

▲植林されるパロサント
生化学的熟成と、経済的合理性のジレンマ
なぜ、パロサントは「養殖」や「大量生産」が難しいのか。その理由は、この樹が持つ特異な生化学的プロセスにある。
パロサントが独特のリモネンやα-ピネンを豊富に含む芳香を放つには、立ち枯れてから数年、地表で風雨に晒される「熟成期間」が不可欠だ。この「時間の堆積」こそが香りの本質であり、人工的にブーストすることは不可能に近い。
行動経済学の観点から見れば、ここに強烈なジレンマが生じる。市場価格の高騰は、供給側に対して「熟成を待たずに伐採する」という短期的利益へのインセンティブを働かせてしまうからだ。輸出制限は、この「不適切な市場原理」に対するブレーキであり、樹木が本来持つべき「時間の尊厳」を取り戻させるための、理性的介入なのだと言える。

▲自然倒木し熟成中のパロサント
現代の精神が問われる「倫理的な沈黙」
我々が輸出制限によって供給の不安定化に直面するとき、それは単なるショッピングの不便さではない。一つの哲学的な問いを突きつけられているのではないだろうか。
「手に入らない」という事実は、現代人が忘れてしまった「対象への敬意」を再燃させる。ボタン一つで何でも手に入るデジタル・プラットフォームの対極にある、アンデスの乾燥した風と、許可証の発行を待つ数ヶ月の時間。この不自由さを受け入れること自体が、現代の精神における一つの修行(プラクティス)になり得ると私は思うのだ。
10%のスピリチュアル:風が選ぶ者への、目に見えない贈与
しかし、最後に一つだけ、ロジックでは割り切れない現象を付け加えたい。
不思議なことに、パロサントを深く愛する人々の間では、「必要なときに、必要な分だけが届く」という実感が語られることが多い。たとえ輸出制限が厳しくなり、市場から姿を消したとしても、本当にその煙を必要としている魂のもとには、何らかの縁によって木片が届けられる——。
それは科学的には単なる偶然かもしれない。だが、パロサントが「聖なる樹」と呼ばれるのは、その物理的な成分のためだけではなく、それが「人間の欲」を超えた領域で、大地の意志を代弁しているからではないだろうか。
輸出制限という壁は、我々に「奪うこと」を止め、「待つこと」を教える。そして、その長い沈黙の末に灯される火こそが、真の意味で我々の魂を浄化するのではないだろうか。



